第68回

2010-03-08UP

講義について考えた(後編)


久田 邦明

「講義について考えた」
第67回 前編 / 第68回 後編

「大学をユースセンターへ」

第65回 前編 / 第66回 後編

「コミュニティビジネスの希望」

第63回 前編 / 第64回 後編

「青少年施策を考える」

第61回 前編 / 第62回 後編

「大学生はコンビニで高齢者と出会う」

第59回 前編 / 第60回 後編

「ピアサポート委員会の活動」

第57回 前編 / 第58回 後編

「子どもがいる暮らしの支援」

第55回 前編 / 第56回 後編

「若者の地元志向」

第53回 前編 / 第54回 後編

「高校生世代という捉え方」

第51回 前編 / 第52回 後編

「地域で子どもを育てるスポーツ少年団」

第49回 前編 / 第50回 後編

「子どもの貧困」

第47回 前編 / 第48回 後編

「地域の声は、届かない」

第45回 前編 / 第46回 後編

「大学は難しい」

第43回 前編 / 第44回 後編

「子どものころ、世話になった大人」

第41回 前編 / 第42回 後編

「団塊世代の地域デビュー」

第39回 前編 / 第40回 後編

「昭和30年代は良い時代だったのか」

第37回 前編 / 第38回 後編

「若者を地域の担い手に」

第35回 前編 / 第36回 後編

 あれこれ考えるうちに『太夫才蔵伝 漫才をつらぬくもの』(鶴見俊輔 平凡社)という、漫才の歴史を主題に日本文化論をまとめた本のことを思い出した。

 漫才ではツッコミ(太夫)が賢い人でボケ(才蔵)が愚か者だが、二人のやり取りが始まると、ツッコミの賢さがあやしくなる。また、ボケの愚か者が油断のならない者にみえてくる。このようにして日常生活における常識的な位置関係がひっくり返ると、そこに笑いが生まれる。

 代書屋の落語では代書屋がツッコミで、やって来た男がボケだろう。これに倣えば、さしずめ教師のわたしがツッコミで、講義に不熱心な学生がボケだ。ツッコミ役のわたしが代書屋の噺のように、あるいはまた漫才のように、講義をもう一つの話芸の舞台と自覚していたならば、学生とのやり取りも楽しいものになったのかもしれないではないか。

 それだけではない。太夫と才蔵の話芸の核心には「あほの相互性の確認への動き」があるという。「かしこい人のかしこさも、あほの地に浮くだんだら模様として見る」という知恵が潜んでいるらしい。ことばづかいの達者な者が利口なわけでもないということだろうか。この本のうんと奥行きのある内容を、わたしのご都合主義で引用してしまって申し訳ない気もするが、それはまあ許してもらうことにして、大衆化した大学の講義をこんな調子でやれないものかと思う。

 いや、それにはわたしはまだまだ芸が不足している。芸を磨かなければならないが、それも簡単ではないような気がする。かなり前から、ボケとツッコミが固定的でなく、入れ替わる漫才がひろがっているからだ。また、学問というものが軽くなったせいで、ツッコミがツッコミらしくふるまえないという問題もある。



久田 邦明
ひさだ くにあき

首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。