第28回

2007-09-25UP

ケータイという道具(後編)


久田 邦明

「子どもの貧困」
第47回 前編 / 第48回 後編

「地域の声は、届かない」

第45回 前編 / 第46回 後編

「大学は難しい」

第43回 前編 / 第44回 後編

「子どものころ、世話になった大人」

第41回 前編 / 第42回 後編

「団塊世代の地域デビュー」

第39回 前編 / 第40回 後編

「昭和30年代は良い時代だったのか」

第37回 前編 / 第38回 後編

「若者を地域の担い手に」

第35回 前編 / 第36回 後編

「生涯学習を学ぶことの効用」

第33回 前編 / 第34回 後編

「期待されていない若者たち」

第31回 前編 / 第32回 後編

「ケータイと新老人」

第29回 前編 / 第30回 後編

「ケータイという道具」

第27回 前編 / 第28回 後編

「若者は故郷をめざすか」

第25回 前編 / 第26回 後編

「二つの放課後」

第23回 前編 / 第24回 後編

「人は、ふれあって生きる」

第21回 前編 / 第22回 後編

 ある研究会で高校の先生の報告を聞いた。テーマは「インターネット・ケータイと居場所の変容」。ストリートダンサーでもあるその先生は、サブカルチャーの論文も執筆しており、若者とのつきあいの範囲が広い。

「携帯電話は電話ではなく、ケータイという道具」という指摘が、わたしには、たいへん参考になった。

 わたしなどは、つい携帯電話を通話のための手段とみてしまうが、高校生にとっては、そうではなく、通話機能はほんの一部分にすぎない。何ごとも「困った時はケータイ頼み」だという。時刻や日にち、曜日の確認。計算、漢字、電車の時刻。友だちの電話番号。明日の天気。メモ。コピー代わりの写真。友だちへの質問。待ち合わせの連絡。音楽やゲーム、サイトを楽しむ。どれも携帯電話を使う。最近では、財布代わりにもなっている。

 そのせいで、記憶しなくてもよいし、ものごとの段取りが悪くてもオーケーだ。ケータイという道具を使えば、その場その場で何とかなる。ダンスは集団的な活動だが、そこでも、携帯電話に依存した、その場しのぎのふるまいが目立つという。

 見過ごせないのは、彼らの問題解決能力とケータイとの関係だ。「やりたいことが発生」すると、「とりあえずケータイで解決」するが、「できない場合は諦める」せいで、「自分の能力は身につかない」という仕組みになっている。そのせいで、「考えない、覚えない、思い出さない、工夫しない、想像しない、見ない、聞かない、読まない、書かない…」となるという、その先生の指摘は厳しい。

 困ったことではあるけれども、この報告を聞いて、「ケータイがなければ生きていけない」という若者のことが、わたしにも少し分かるような気がしてきた。また、携帯電話を敬遠するわたしもエラソーなことはいえないなあ、と思った。彼らと似て、毎日を、その場しのぎでやりすごしているではないか。


久田 邦明
ひさだ くにあき

首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。