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風の声

大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー

第66回

第66回
大学をユースセンターへ
(後編)

久田 邦明
※組織名称、施策、役職名などは原稿作成時のものです
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大学進学率がついに50%を超えたという。大学進学者が同世代の多数派になったのであれば、いっそのことその事実を追認して、大学を多様な若者を受け入れるユースセンターにしてしまえばよいのにと思う。時代遅れになった大学のタテマエを見直して、若者が多彩な教育文化活動を通して大人になる準備をするところに変えるのである。その方が社会的意味もあるのではないだろうか。

わたしは大学の講義を社会教育の学習プログラムと似たものにするというアイデアを以前から考えている。それというのも、公民館で開催される青年事業の講師をしていたときには、大学生や大学院生、雑誌編集者やフリーライターなどの知的関心の高い若者も参加してきていた。それならばと、共同学習とか話し合い学習とか呼ばれる社会教育の方法をアレンジして多人数の講義で試してみたところ、毎年受講生が倍増した。まあ、ゆるい単位認定のせいだったのだろうが、学生が交代でさまざまなスタイルで報告する講義に受講生の参加意識は高く、たびたび学生に誉めてももらったから、それだけでもなかったと思う。

大学がユースセンターになっているということばを聞いて、時代の変化がこのアイデアの後押しをしてくれるような気がしたが、そうはいっても、大学とユースセンターとのあいだの距離は大きすぎる。参加費不要の青年事業とはちがって大学の場合は年間百万円ほどの学費を徴収する。大学は、高額の学費に見合った、何か特別なものを提供しなければならない。特別なものといっても今日では「大学へ行かないと割を食う」といった消極的な意味に成り下がっているわけだが、それでも何か特別なものが用意されていることにしなければ、大学は立ちゆかないのである。

大学にかぎらず制度というのは矛盾を抱えている。制度の担い手としてはタテマエとのあいだのギャップを持て余しながら、日々、学生の相手を続けるしかないのだろう。そうするうちに西欧諸国のように大学の学費が無料になって、ユースセンターへの準備が整うかもしれない。いや、まさかそんなことはないか。

久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。

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