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前著『イラク 戦争と占領』で革命下の政治動向を描き出した著者は、この本『イラクは食べる』で、イラクの日常を描き出そうとする。「食べる」という行為こそは、日常性の象徴だ。イラクのフセイン打倒は、民主化ではなく、イスラム革命であったのか? その答えは、半ばYesであり、半ばNoである。
イラクを空爆したヘリコプターからの大雑把でマクロな視座で見れば、たしかに民主化ではなくイスラム革命であったというのはYesだろう。しかし、そこにはこの革命の間にイラク人の日常において何が起きていたのか、つぶさに見ようという視点が欠如している。
実際にイラク人の生活に何が生起し、何に取って代わったのかは、はるか上空からの目線ではなく、最低限バスに揺られてその空気に触れながら、肌で直接その温度や湿度を体感し、日常生活を体験してみないことには見えてこない。もちろん、著者にしてからが、元々は外の視座を持つ優秀なヘリコプターの操縦士であったに違いない。しかし、ヘリコプターからでは人々が何を食べているのかは見えてこない。さらに研究を進めるには、ヘリコプターを降りバスに乗り換え、現地に出るしか方法はない。そこで起こっている一連の事態は、イスラム革命の一言で括り果せるような単純なことではなく、伝統回帰という言葉で説明がつくような事態でもない。その意味では明らかにNoだ。
日々の暮らしの中に影を落とす「革命」というとほうもない異常なできごとは、その端々が一旦は限りなく微分化されて、全体像をなくしてしまう。しかし微分化されたからといって日常性の中に全て溶けてなくなってしまうわけではない。その細かな関係性の網の目が再び積み重なり、旧来とはまったく異なる新たな日常を構成するまで、しかとした姿を見せないだけだ。
「革命」の風景はどれも仔細に見ていけばまちがいなく異常事態なのだろうが、異常も日々続けば日常となる。革命途上において見えてくるのは、ばらばらになった社会が個別に武力に依存しながら、混乱を生き延びようとしている姿である。
そのイラクに対し、日本ができることは何かを問うことは、武力に拠らずして得てきた「平和」をどう伝えることができるのか、戦前から戦後にかけて日本が経験してきた軍と政治の関係をどう整理し、果たして理路整然と説明できる用意があるのか、他者に提示できるほどに我々はそれを考えてきただろうかと、内に向けて自問することに等しい。著者の問いかけには、はるか上空のヘリコプターから全てを見下ろし、イラク海外派兵の是非を国益だけからはかろうというような短絡的なそれは微塵もない。
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竹村 洋介
たけむら ようすけ
東京大学文学部社会学科卒業、同大学院教育学研究科博士課程修了。専門は不登校、フリースクール、ひきこもり、NEET論など。NPO法人越谷らるご顧問理事を勤める。このように、現実の社会問題をフィールドワークする一方で、書評子としては、『ドリコムアイ』誌を中心にいくつかの雑誌でほぼ25年近くにわたり連載を重ねる。社会科学全般、社会学、教育学、心理学、経済学、政治学からはては精神医療にまでその広い守備範囲とし、日本児童青年精神医学会の評議員などをも勤めた。近畿大学では、社会学、生涯学習論などの講義をおこなっている。著書に『近代化のねじれと日本社会』(批評社)、『ひきこもり』、『学校の崩壊』(共著、ともに批評社)などがある。
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