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精神科医が書いた本というのは、眉につばをつけて読んだ方がいい。稲村博や斎藤環のように、善意からかもしれないが、自分の治療経験から、社会を論じるにあたって、論理が三段跳びしてしまう例が多いからだ。新聞にだされたコメントなど、目を覆いたくなるようなものが珍しくない。そこには、マスコミの論理もからんではいるのだろうが。
ミクロな臨床場面にあてはまる法則であっても、所与の条件が異なれば違った結果が出てくることがある。どういう条件の下で、そのミクロな法則が該当するのか、どの範囲まで拡張可能なのかは別に論じられなければならない。そこには、社会科学でいうミクロ・マクロ問題が潜んでいるからだ。和田秀樹のように精神科医もやる受験屋さんなら、読む方も心得て読んでいるはずだから−そうですよね、精神科医のいうことだから頭がよくなるなんて思っている人いませんよね−まだ罪もないけれど、国民病だ、社会への警鐘だなどと言われると、なんだか心配になってくるのが読者の意識というものだ。所謂、「心理学主義」、僕の言葉で言えば「精神医療還元主義」が強くなってきている昨今の風潮の中ではなおさらである。もちろん、石川憲彦や高岡健や香山リカのように、精神科医でも社会科学者・クリティークであり、社会理論に貢献している人もいることは言っておかねばならないが。
さてその中で、斎藤学はどういう位置をしめているのか? 10年ほど前にアエラを初めとしたマスコミに持ち上げられ、「アダルト・チルドレン」「共依存」と言う言葉だけが一人歩きし、どすんと梯子を外されたという過去がある。これらの概念はその後、充分な検討をされることなくうち捨てられてしまったのではないか? 私は今でも、適切な該当範囲を定めて考察すれば、可能性を開ける概念ではないかと思っている。この本では、アダルト・チルドレンという語句は1回しか出てこないが、それが間違いだったということではないはずだ。
タイトルは何やら、ハウツーもの的になっているが、インチキな実用書ではない。このエッセイは、「自分が自分と和解する」「自分が自分を受容する」、そしてそれは無条件の「絶対受容」でなければならないというベースラインに沿って、生きるのが苦しい人たちの有り様を記述したものだ。肩書きも、精神科医であることに変わりはないが、「家族機能研究所代表」が前面に出されている。そのためか、論理的体系を前面に出した精神医学書ではない。登場人物も、AからはじまりZで終わったり、子どもが引きこもったら「引きこもりノボリを立てよう」と、いたるところに遊び心に満ちたエッセイとなっている。固い内容を説明的に薄めたものとは異なり、医師とは思えない非啓蒙的で軽やかなタッチの文章も魅力の一つだ。
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竹村 洋介
たけむら ようすけ
東京大学文学部社会学科卒業、同大学院教育学研究科博士課程修了。専門は不登校、フリースクール、ひきこもり、NEET論など。NPO法人越谷らるご顧問理事を勤める。このように、現実の社会問題をフィールドワークする一方で、書評子としては、『ドリコムアイ』誌を中心にいくつかの雑誌でほぼ25年近くにわたり連載を重ねる。社会科学全般、社会学、教育学、心理学、経済学、政治学からはては精神医療にまでその広い守備範囲とし、日本児童青年精神医学会の評議員などをも勤めた。近畿大学では、社会学、生涯学習論などの講義をおこなっている。著書に『近代化のねじれと日本社会』(批評社)、『ひきこもり』、『学校の崩壊』(共著、ともに批評社)などがある。
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