大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第80回第80回
カフェ・バッハのこと
(後編)
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文子さんは、1968年、両親の経営する大衆食堂を引き継いで喫茶店を始めた。田口護さんと結婚、70年代半ばに店に改装して自家焙煎を始めるようになってからも、ずっと地元の人々に支えられてきたという。台東区日本堤という、以前は山谷と呼ばれた三大ドヤ街の一つを擁する地域だから日雇い労働者が大勢住んでいた。外国航路の荷役の経験者などのコーヒーの味にうるさい客に鍛えられたという話も聞いた。
また、酔っ払いの客と店の前で渡り合ったという武勇伝には感心した。酔っ払い客との格闘を続けるうちに、常連客も酒を飲んでいるときには来店しないようになったという。その後、自家焙煎の有名店になるが、地元のお客さんを大切にするという、この店の経営方針は変わっていない。常時働く十数人の若者も地元のアパートで暮らすことが条件だ。
わたしは、カフェを、浮遊する都市住民の憩いの場だと思い込んでいた。そんなふうに偏った理解をしていた自分が情けない。TVドラマの舞台になったり雑誌に紹介されたりする原宿や銀座のお洒落なカフェや、駅前などに目立つようになったチェーン店は、カフェの表層のイメージにすぎない。文子さんがいうように、カフェがもともと地域の人々の交流の場であるとすれば、コミュニティカフェということばが最近ことあらためて使われるようになった背景や経緯について考えてみなければならないだろう。
昨年の末に『カフェを100年、続けるために』(田口護 著/旭出版)という、バッハの足跡をまとめた本が刊行された。著者は田口文子さんの旦那さんだ。この本を読んで、これまで折りにふれて文子さんから聞いた話を確かめることができた。バッハでは、音楽会や版画のワークショップや年末の炊き出しやクリスマス会のケーキづくりをおこなってきたと記されている。なかでも注目されるのは、無縁仏を供養するために、地元の人々と協力して、三ノ輪の浄閑寺に、ひまわり地蔵を建てたという話だ。地域社会には、生者だけではなく死者も暮らしている。しばらく前までこれは当たり前のことだった。バッハは、このことを知っている。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。