大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第82回第82回
情報の受け手の問題
(後編)
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最近わたしが考えるのは、本人の気に入らない話は聞こえない仕組みになっている、という問題だ。相手が大切なことをいったとしても、それが耳に入らないのは、よくあることだ。同じように、こちらが大切なことをいっても、相手が聞いてくれるわけではない。およそこのように無意識のうちに自分の都合に合わせて、気に入らなければ聞き流してしまう。
メディアの情報についても同じことがいえるだろう。メディアの情報には情報操作という問題がある。情報操作をする側は命懸けで情報操作をするから、あなどれない。おぞましいことだけれども、情報操作を指摘するだけでは、それを越えることはできないだろう。それというのも、情報操作が功を奏するのは、気に入らない情報は受け取らないという、受け手の側の問題があるからだ。人にはそれぞれに自分の都合というものがある。それに合わせて、気に入らない情報は受け取らない仕組みがみえる。
しかし、それぞれが気に入る情報だけを受け取るばかりだと、相互不信が生まれて人々のあいだで社会への信頼を失われてしまう。人間社会なんてどうせそんなものさ、という考え方もあるだろう。しかし、ここではそれを取らないことにしよう。これを避けるには、どうしたらよいのか。昔ならば想像力ということばが使われたかもしれない。今なら、勇気というべきだろうか。
勇気をふるうためには、ある程度の余裕がなければならないだろう。現実的に考えれば、充分な睡眠や食事、それに親しい人間関係などが必要だ。しかし、あわただしい毎日のなかで、そういう余裕をもつことができるだろうか。余裕がないからこそ多様な情報を受け取ることができないとすれば、問題は堂々巡りになってしまう。なかなか難しい。
せめて自分の気に入らない情報に対しても、居丈高に否定するだけでなく、耳を傾けようとする、感度の良さを失わないようにこころがけたいものだ。
つい話が大きくなった。最初に戻る。学生たちも、いずれ切実な必要にかられて、講義で紹介した住民施設のことを思い出してくれるかもしれないと、期待することにしよう。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。