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風の声

大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー

第88回

第88回
コミュニティカフェの力
(後編)

久田 邦明
※組織名称、施策、役職名などは原稿作成時のものです
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コミュニティカフェということばの力について、また、その必要性について、わたしは幾らでも語ることができる気がする。ところが、その一方で、その運営については、なかなか良い知恵が思い浮かばない。困ったことだ。そのせいで、つい、ことばかずが少なくなる。

じっさい、このようなタイプの施設の経営を生業にしようとすると、なかなか難しい。自前の土地と建物があれば、まあ何とかなるだろう。食い物は、店のメニューや常連客の手土産をやりくりすればよい。それが、賃借料を払うとなると、うまくいかない。それに加えて、家族を養うとなると、のんびりしたこともいっていられない。

地方自治体のなかには、開店と運営の経費を支援するところも出てきているが、一年や二年の短い支援期間ではその後が続かない。

実現可能な現実的なアイデアは、社会福祉法人などの団体が、従来の事業に付随するかたちで運営するという方法だろう。他の事業と辻褄を合わせて運営するわけだ。ただし、この場合は福祉事業という看板のせいで、結果として利用者を限定してしまうおそれがある。

コミュニティカフェに関心をもつのは善意の人だ。そのせいで、金銭のやり取りには疎い(この問題は他人事ではない)。

それでも、可能性がないわけではない。コミュニティカフェを切実に求める人は、時間をかけて計画を立てる前に、可能な範囲で始めてしまうようだ。行動力のある人は、かたちにこだわらない。

たとえば、自宅の敷地の道路に面したところを開放して椅子を置いた、ポケットパークの事例がある。自宅の前に長椅子をひとつ置くだけでも、通りがかりの人が立ち寄るところになるだろう。じっさい、わたしも商店街の店先のベンチに腰をおろすおばあさんと話をしたことがある。

学生にレポートを求めると、このような肝心な点がおろそかになる。レポートとなると、学生も教師のわたしも、それらしいことを書かなければならないと考えてしまうからだ。そんな落とし穴に気をつけながら、手づくりの小さな住民施設の可能性について考えたい。

久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。

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