大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第1回第1回
『大学って何?』
(前編)
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今どきの大学生は、教師の話を聞かない。どうしようもない、何を考えているんだ。こんなことを言うと、情けない教師の愚痴に聞こえるだろうか。
高校の先生のなかには生徒指導に苦労する人は多い。「やっぱりなあ」と同情してくれる人もいるだろうが、「ようやく気が付いたか」とほくそ笑む人もいるにちがいない。小・中・高校の仕事熱心な教師の苦労に比べれば、大学の教師の苦労話など、たいしたものではないのかもしれないが、それでも言いたいことはある。
しばらく前まで学生は、〈学生〉の振りをしてくれた。そのおかげで教師は、学生が話を聞いていると錯覚することも許された。いや、そんなことはない、学生は自分の講義に興味をもっていると反論する教師もいるだろうが、そういう人は自分の学生時代を思い出してほしいものだ。昔は両者のあいだに「大学とは、こういうものだ」という共通理解があった。そのせいで大学の講義もそれらしい体裁を整えていた。それが失われているのである。もちろん今日なお、その名残りはある。だからこそ大学は存続しているわけだが、それも今や崖っぷちといった状況ではないだろうか。
足元が崩れようとする事態を前にして、大学の講義を成り立たせるために、様々な対応策が講じられている。例えば、シラバス(講義実施要綱)の充実、学生による授業評価の実施、教育実践の情報交換などが、一般的な対応策だろう。これらに意味がないわけではないだろうが、率直に言って事態の改善は難しいと思う。
「大学とは、こういうものだ」という共通理解が失われたなかでは、教師は一瞬一瞬の学生とのやり取りのなかで「大学とは何か」を再定義していかなければならない。これは別に大袈裟なことではない。私語や飲食、携帯電話のメール、無断入退出などの振る舞いへの対応において「大学とは何か」が問われるのである。このような油断のならない現実にも夢や希望はあるのだろうか。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。