Teaching Staff Life…ベテラン教員から後輩に贈るメッセージ
#0510年後20年後にいちばん必要になる
何かを思い描く
主幹教諭
永谷 雅仁 先生
公開:
更新:
都立両国高等学校は明治34年創立の府立三中を前身とする伝統校であるとともに、東大進学者が60名に上る年もあった東京東部の進学校。2006年には附属中学が開校し、都立の中高一貫校として将来のリーダー養成を担い、高い進学実績も期待されている。生徒の構成は、附属中学に入学した中学入学生120名はほぼそのまま両国高校に進学。外部からの高校入学生約80名もいる。
「勉強の両国」から
多様性自主性重視の校風に
かつては牢獄高校と言われるほど、とにかく勉強させる、させられる学校でしたが、学ぶという、学校としてなすべき当り前のことを目指していたのだと思います。一方では教員自身の高い水準も求められるのは、教育成果を「三高教室」(1940年代の旧校名、第三新制高校に由来)という学術誌にまとめ、それが営々と続いていることからも伺えます。
リーダー養成校としての役割は負いつつも、それは勉強だけではありません。中学から総合的な学習の時間に志学という時間を設けて、各界で活躍する両国OBを招いて話を伺う機会も設けています。
中学入学生と高校入学生の進度調整に一年以上かける中高一貫校もありますが、当校では高一から混合クラス。教育をめぐる制度が大きく変わっていく時代に、教務と進路の担当者は今まで以上にしっかり連携して学校の設計をしなければなりません。
附属中学では、高校でやることは高校の授業でしっかりやるという方針のもと、高校の授業の先取りはせず、他方、発展的な学習はしっかりやるというスタンスをとっています。
生徒は先生の真似をする
日本史を学んで大学院進学を目指していたころ、重箱の隅をつつくような研究のやり方に違和感を感じて、それでも好きな歴史に関わっていたいと都の教員になりました。工業高校、普通科校を経て当校に赴任して18年目。都立校の教員としては長い方になります。附属中の開設準備や学年主任を担当し、現在は進路指導に携わっています。中高一貫校になって初めて担当した中一生が高校を終えて大学を卒業し、当校の教員に採用されて今度は同僚として迎えるというのを経験をしたところです。
新採用で赴任した工業高校には日本史の科目がなく、世界史など他の社会科目を教えました。自分の専門科目が教えられないというので、辛かった記憶があります。6年目に普通科校に移って、やっと日本史の授業ができるのが嬉しかったです。
当校に異動した1年目は進学校ということもあり、教材研究も授業も、テスト問題の作成も大変でした。年齢的には中堅の域でしたが、涙を流したこともあったと思います。校長との面談で、「先生、大変でしょう。でも、生徒はもっと大変なんです」と言われてガクッときたこともありました。生徒もまた「勉強の両国」と格闘していたのだと思います。
今の両国高校は部活も活発で、行事にも熱心に参加するなど、文武両道で高校生活を謳歌している生徒が多いです。勉強熱心ないわゆるガリ勉の生徒も敬遠されることはなく、一方で部活に熱中する生徒も、誰にも居場所がある。そんな学校になったと思います。
私も新人のころは引っ込み思案で、大声を出すのにも苦労していました。生徒を叱るのに怒鳴ろうとしたら声が裏返って、生徒に笑われたこともあります。そんな中で格闘して、目に見えないところで先輩たちにも助けられ、やって来られました。これまで続けられた理由は、やはり生徒が好きなのだろうと思います。
当校では、都立校では珍しく大職員室がなく、教科ごとの小規模な控え室になっていますから、そこではベテランから若い先生までが交流できる場になっています。今の若い先生方は、みんな優秀です。熱心だし知識もあって、アクティブ・ラーニングにも対応できています。
新人のころに先輩から言われた、「生徒は先生の言うことなんか聞かない。だけど先生の真似をする」という言葉は忘れられません。生徒は先生を大人のロールモデルとするので、そのカラーが生徒一人ひとりやクラスに出る。ちゃんとしなきゃと思いました。真似をしたのかどうか、中高一貫校になってから教員を目指す生徒が増えたのを実感します。
社会に害をもたらす仕事だって世の中に存在しないわけではありませんが、教員というのは、目の前のことをしっかりやることで人の役に立てる仕事です。今の学校現場は仕事も増え、生徒が帰った後にやっと自分の仕事を始めて、遅くまで居残る先生も多いですが、目の前の仕事に没頭しながらも、自分にとって10年後20年後にいちばん必要になる何かを思い描いて欲しいですね。
東京都立両国高等学校
主幹教諭
永谷 雅仁 先生
[プロフィール]
1959年生まれ。附属中開設準備室員、学年主任などを歴任。現在は進路指導に携わる。