大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第43回第43回
大学は難しい
(前編)
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大学のなかで講義の位置づけが変わってきた。これまで大学は、学生同士のつきあいやサークル活動やアルバイトなど、さまざまな要素によって成り立っていると考えられていたのではないだろうか。講義もそのなかの一つにすぎなかったわけだが、このところ大学側の意向によって講義が重視されるようになっている。
それを象徴するのが講義回数の確保への動きだろう。休講には補講を必ずやるようにと事務当局からいわれる。資格科目で役所からいわれたことがきっかけの一つらしい。それがすぐにそのほかの講義へもひろがり、祝祭日のせいで講義回数が減ると、土曜日や他の祝祭日に補講日が設定されることもあるようだ。
講義回数の確保は正論であり文句のつけようがない。これまで一般の人々も大学教師のお気楽さに呆れていたのかもしれない。高額の学費を負担する保護者は、カネを払っているのだから講義回数の確保は当然だと考えるだろう。学生は、相変わらず休講は嬉しいようだが、腹のなかではカネを返せと思っているのかもしれない。
講義回数の確保がすすむのは、大学が教育に熱心になったからだとは、必ずしもいえない。もしそうならば、少人数講義を増やすなどの効果的な方法を真剣に考えるだろう。これは、大学の社会的位置が変化したことへの反応とみるべきものなのだ。
昔の大学は少数者が進学する特別なところだったが、進学率が50%近くに達するという数字に明らかなように、もはや特別なところではなくなってしまった。この意味で、大学は大学ではなくなったということもできるだろう。
ところが、それでも大学は大学として存続している。とすれば、これまでとはちがったやり方で大学の存在根拠を示さなければならない。年間百万円もの学費を徴収していることを考えれば、これは切実な課題だろう。しかし、なかなか良い知恵は思い浮かばない。そこで採られた方法の一つが、この講義回数の確保なのである。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。