大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第44回第44回
大学は難しい
(後編)
公開:
更新:
ある時期までの大学は成人儀礼としての意味をもっていた。大学とは“強いられた自由時間”を過ごすことによって、若者が大人になるための準備をするところだったといえるだろう。
大学を経済的利益や社会的地位の獲得だけで捉えることはできない。世俗の暮らしから距離を置くという余裕をもって、ものの見方や考え方を身につけるところだった。しかしこれは少数の若者たちの特権であった。大学に行かなかった親が、子どもに大学進学を熱心に奨める気持ちのなかには、そういう幸運な機会へのあこがれがあるのではないかと想像する。
じっさい、学生からそういう親の期待を聞いて、ちょっと切ないおもいをすることがある。この何十年間、大学はこのような人々の期待を寄りどころにして何とか命をながらえてきたのではないだろうか。しかしもはや大学が特別なところではなく、普通のところになってしまったことは、多くの人々の眼に明らかになっている。
普通のところになってしまった大学を、それでも存続させようとすれば、新しい方法を工夫してその存在意義を伝えていかなければならない。手っ取り早いのは、世間常識に合わせて大学もちゃんとやっていますとアッピールをすることなのだろう。
ただ、これをやり始めると、難しいことになるのではないだろうか。これまで特別なところであることを売りにしてきたのに、今度は、普通のところであることを売りにするわけだ。下手をすると、大学そのものを否定することになりかねない。
このように考えると、大学の延命を意図して講義回数の確保をすすめるのは、大学の衰弱に手を貸すことになりかねない。何としたことだろう。しかし、これが現在の大学の姿なのだ。どうしたらよいのだろうか。大学は難しい。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。