大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第45回第45回
地域の声は、届かない
(前編)
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「解決ということはない」ということばを、住民施設の女性館長から聞いた。その施設には、やんちゃな中学生が集まる。スタッフやボランティアの大人は熱心に彼らの面倒を見ている。理解のある役所の協力も得て、彼らの部屋を用意したり、利用時間を延長したり、ニュースレターで地域住民の理解を求めたりしてきた。
10代の身勝手さを非難する声はめずらしくないけれども、彼らのことを想像すると、大人に相手をしてもらっていないことに気づく。放っておかれているわけだ。親や教師と話すことはあっても、それ以外の大人と話をする機会は、うんと少ないのである。そんなことで、ちゃんとした大人になれるのだろうか。
そういう彼らの相手をするスタッフやボランティアは貴重な存在だ。その先頭に立つ館長が、彼らをめぐる問題に「解決ということはない」という。どういうことなのか。
20年余りの歴史をもつこの施設へは、途絶えることなく毎年、中学生がやって来るという。卒業生が訪れることもある。世の大人たちと同じように彼らもまたさまざまに苦労しているのだろう。その苦労はそれぞれの人生を背景にもつものであれば、住民施設の運営を通して簡単に何とかなるものでもないわけだ。
それだけではない。館長のことばには、もう一つの意味がありそうだ。それは次のような行政施策の一般的な問題だ。行政は、問題を見つけると、それを課題として設定して予算を付けて施策を講じる。そして、年度計画なら1年単位でその評価をまとめる。それで一丁上がりとなるわけだが、現実の方はそういうものではない。行政の評価で「解決」したことも実際には解決しないことが多い。
住民代表のような位置の館長のことばは、このような行政施策一般への疑問の声のように、わたしには聞こえる。行政の都合による「解決」は問題の所在を曖昧にするだけではないのか、と。そうはいっても、館長は行政批判にかまけている暇などない。「解決ということはない」ということを承知の上で、倦むことなく日々の課題に立ち向かう。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。