大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第46回第46回
地域の声は、届かない
(後編)
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館長は、施設運営の仕事は「つまんないことの連続」だと語る。手前勝手な子どもや若者の相手をしたり、近隣住民の苦情を受けて話を聞いたり、役所とやり取りをしたりと、日常の仕事は、下世話なことの繰り返しだ。
もちろん、それを本当に「つまらないこと」だと考えているわけではない。実際には、そういう仕事の積み重ねによって、その施設は住民の暮らしに役立つものになっているのだ。このことを承知していないはずはない。
問題は、その「つまらないこと」の意味するものが、当事者のレベルに止まって、ひろく伝わらないところにあるのだろう。もしこれがひろく伝わっていけば、一つの動きとなって、この社会に目に見える変化を生み出すことになる。しかし、それが、ひろく伝わるのは稀なことだ。たとえば、行政施策をみると、お役人は、地域の先駆的な事例を見つけて、それを参考に施策化をすすめる。しかし、個別の事例を一般化する過程では「つまらないこと」の意味するものは取り残されることになる。結果として実のある施策になることは少ない。この点で、霞ヶ関の優秀なお役人のやることも例外ではない。
わたしは、「地域の声は、届かない」という、これまでずっと考えてきた問題を思い浮かべた。全国各地に、まともな活動をしている住民がいないわけではないのに、それが、ひろく伝わって、一つの動きにならないのはなぜなのか、という問題だ。
わたしはずっとそのことを嘆いてきたが、もしかすると、思い違いをしていたのかもしれない。「地域の声は、届かない」とは、実のところ、「つまらないこと」の繰り返しであるのかもしれない、地域社会の自治の可能性ついて教えてくれることばなのかもしれないのである。
これまで個別の活動がひろく伝わることを願ってきたけれども、ひろがらないことの意味についても考えてみる必要があるのだろう。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。