大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第47回第47回
子どもの貧困
(前編)
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地域社会には、子どもの面倒を見る大人が少なくない。先に、「子どものころ、世話になった大人」という大学生のレポートを手がかりに、このように記した。が、子どもをめぐる状況は、こういっておくだけですむものではない。
そもそも大学生は経済的文化的に恵まれた環境の中で育ってきた者たちだろう。高等教育への進学率が50%を超えて、これまでにないほど大衆化した中でも、このことは否定できない。そういう若者たちの証言には明らかな偏りがある。親切な大人にめぐりあうという幸せな子ども時代があったからこそ、彼らは大学までたどりついた、とみることもできる。
わたしはこのあいだ、子どもの居場所づくりの現場を訪ねたり報告を聞いたりしてきた。そういう活動の中で気になるのは、居場所へは必ずといってよいほど厳しい暮らしの子どもが訪れるということだ。
日常生活が順調であれば、わざわざ居場所へ立ち寄る必要もない。その中に、厳しい状況に置かれた子どもたちが含まれるのは当たり前のことだ。やって来るのは日々の暮らしに居心地の悪さを何となくではあっても感じている子どもたちだろう。
小学生の姉が幼い弟の面倒を見ていたり、父子家庭の中学生がホームレスのような日々を過ごしていたりするという話には、胸が痛む。外国につながりをもつ(ニューカマーなどの)子どもが、義務教育後の人生に希望をもてないという話には、ことばを失う。十代後半の若者の中にも、高校生活に馴染めなかったり、不安定就労の職場で苦労したりしている者がいる。地域で子どもの面倒を見る大人は、子どもの貧困という問題と向き合わないわけにはいかないのである。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。