大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第48回第48回
子どもの貧困
(後編)
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このところ、あいついで、子どもの貧困を主題とする本が出版されたり雑誌で特集が組まれたりしている。これまで目に見えなかった現実がようやく表通りに登場するようになった、ということだろうか。
子どもの貧困ということばに象徴される、この問題の指摘の方法が注目される。そこには、子どもの貧困とは、貧困の連鎖に苦しめられる子どもたちの問題ではあるが、その背後に社会の仕組みの問題が横たわっており、ひろく一般的な課題だということを伝えたいとする含意があるのだろう。
しばらく前に流行した、ニート(NEET=Not in Education, Employment or Training)ということばに、これをひろめた人々の戦略的な意図が込められていたことを思い出す。
そこでは、「みんな一緒」という気分の支配的な日本社会では、このことばで表現される問題が少数の若者たちの特別な問題と受け取られると、社会的関心が限定されてしまう、という判断がはたらいていたのである。
経済誌が「子どもの格差」や「子どもの貧困」を特集に組んだのは、この点からみてとりわけ注目される。ただ、子どもの貧困を主題とする本の著者は福祉分野の専門家であり、特集を組んだ雑誌は経済誌である。その一方で、教育関係者の間では子どもの貧困を語ることばが失われているようにみえる。また、教育雑誌をみれば、その大部分が教師を読者とするメディアのせいか、学校教育の枠組みを超えることがない。
経済的貧困は文化的な意味の貧困と結びついている。ここで想定する「文化」とは、日常生活の人間関係などのライフスタイルのことだ。このレベルの文化を獲得しなければ貧困に押しつぶされてしまうだろう。
子どもの面倒をみる人たちは、このような文化の問題と格闘している。そこには間違いなく教育の課題があるはずなのである。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。