大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第77回第77回
青年団が教えてくれること
(前編)
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青年団というものがある。と、まあ、ちょっとまわりくどい言い方をしたのは、青年団を知らない人が多いからだ。青年団と聞いて、平田オリザの主宰する“劇団青年団”を、まず思い浮かべる人もいるだろう。
大正から昭和にかけて青年団は広く知られる団体だった。日清日露戦争の時期に為政者によって注目されるようになり、明治神宮外苑に日本青年館(1925年)が建設されると、全国組織の大日本連合青年団がつくられる。その後、大日本青年団(1939年)、大日本青少年団(1941年)へと再編成される。ただ、それも戦時中に解体されて国民義勇隊(1945年)へ統合されてしまう。それが、戦後再建されて日本青年団体協議会(日青協 1954年)が誕生、今日に至っているのである。
国民体育大会(1946年)の前史である明治神宮競技大会(1924~43年)は主に青年団員の参加する大会であったし、戦後の最盛期の団員は300万人とも400万人ともいわれる。近代化の時代に、他に例のない規模の団体だったのである。
じっさい、竹下登元首相が島根県青年団のリーダーだったというように、60代より上の世代の首長や議員の経験者に青年団出身者は珍しくない。しかし、その後の時代の青年団は見る影もない。現在は団員数十数万人といわれるが、各県に県団があるとはいえ、その実数はうんと少ないのではないだろうか。その理由は、青年団を支えてきた地域社会が解体してしまったからである。
これを若者の動向からみると、まず第1に、上級学校への進学率が上昇して働く若者が減少した。第2に、地元の中小事業主が減少して若者の生活基盤が失われた。第3に、昼夜交代制などの変則勤務がひろがって青年団活動そのものが困難になった。青年団の衰退を一言でいえば、地域社会に若者がいなくなってしまったからである。
青年団の減少は時代的な必然だろうが、問題はそれに代わる仕組みが生まれていないことだ。そのせいで、地域社会の担い手が育たなくなった。地域社会の担い手が育たなければ、地域社会の再生は考えられない。このことを教えてくれるのが青年団の推移なのである。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。