大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第78回第78回
青年団が教えてくれること
(後編)
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日青協の『日本青年団新聞』によると、単位団と呼ばれる、まちの青年団が再建される動きが生まれているという。数は少ないが、何かこれまでにない、静かな勢いが感じられるらしい。この背景は容易に想像がつく。地域社会の日々の暮らしが立ち行かなくなってきたことである。そういうなかで、日々の暮らしの必要が青年団を呼び戻そうとしているのだろう。
昔、地域の若者の集う若者宿は、住民が頼りにするところだったといわれる。夜中でも急病人が出たときには若者宿へ駆け込んだ。まちの医者のところまで彼らが荷車で運んでくれたからだ。火事や水害のおりにも若者たちが活躍した。高度経済成長期に行政施策が整うようになるまで、このようにして若者たちが地域社会の支え手として頼りにされていたわけである。
今日、地域の支え合いの人間関係が失われているにもかかわらず、財源不足のなかで行政サービスの充実には期待できない。このようななかで、青年団が呼び戻されるようになったのは根拠のあることはないだろうか。
そうはいっても楽観することはできない。この動きを意味あるものにするには、過去の青年団をなぞるのでなく、運営方法や活動形態を現代にふさわしいものに工夫しなければならない。それこそ後期近代あるいは第二の近代を実践する必要があるわけだが、それができるのかどうか。
青年団という、近代化の時代の名称についても考え直す必要があると思う。いっそのこと、青年団と呼ばれるようになる前の時代の、若者組とか若連中とかいう名称に戻してみたらどうだろうか。もともと青年団はこれらの団体の機能の上に載るかたちで、行政の都合によって組織されてきたふしがある。この点に着目して、青年団などは存在しなかったという民俗学者もいるくらいである。近代化の時代が終わったせいで青年団が衰退してきたのであれば、もう一度、地域社会の団体として再生させればよいのではないか。旧い名前に戻すというのは、それが良いかどうかは別として、このような関心からの提案だ。
最近、あるまちの大人から、地域社会の担い手に育てるために「ぼんやりした」若者たちが集う居場所づくりを計画しているという面白い話を聞いた。彼らは地域社会の担い手として実に貴重な存在だというのである。別のところでこの話をしたら、地域活動の経験の長い女性が、うなずいて「学校の成績は関係ない」と言い切った。学校や企業の人間評価とは別の基準がはたらいているのだろう。このような見識を拠りどころとした青年団の再生が期待されるのである。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。