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風の声

大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー

第15回

第15回
いじめをどうする
(前編)

久田 邦明
※組織名称、施策、役職名などは原稿作成時のものです
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昼休みにキャンパスの喫茶店で一休みをしていたときのことだ。騒がしい女子学生のグループがやって来た。「いじめ」ということばが聞こえたので耳を傾けると、子どものころのいじめの話らしい。

一人の学生が、いじめの中心にいる子は、他の子にいじめさせておいて、自分はいじめられる子にやさしくふるまっていたと、あっけらかんとした調子で話していた。その屈託ない語り口に、困ったことだなあと思った。若い世代にとって、いじめはやはりありふれた出来事なのだろうか。

高度経済成長期に育ったわたしには、いじめがどういうものなのか、よく分からない。もめごとは日常茶飯事だったが、何となく片が付いていたような気がする。そこで想像するしかないのだが、昔もいじめはあったのだろうと思う。貧しい時代にいじめられたのは、地域社会のなかで文句のいえないような、うんと弱い立場の家の子どもだったのではないか。そのせいでその声は容易に封じ込められたのだろう。また、差別や暴力が身近なものだったせいで、いじめが目立たなかったということもいえそうだ。

ただし忘れてならないのは、その時代には悲惨な現実を表現することばが用意されていたことだ。それは、社会運動の告発することばであったり、大衆芸能の慰めることばであったりしただろう。酷い目にあって身の置き所のなくなった者は、たとえ頼りにならないことは分かっていても、そういうことばに身を寄せることができたのだと思う。

ところが今日では、おもいがことばに届こうとする手前のところで、うやむやになってしまう。身の置き所がないというおもいは行き場を失う。この豊かな社会は、厳しい現実を見ないふりをすることで、かろうじて成り立っているものだからだ。そうであるとすれば、あの学生たちのように、あっけらかんとした調子で受け流すしかないのかもしれない。

久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。

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