大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第27回第27回
ケータイという道具
(前編)
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携帯電話は、わたしにはよく分からない。たとえばメールである。自分が四六時中メールをやり取りする姿はちょっと想像しにくい。
そんなことを始めたら自分の世界が大きく変わってしまう気がする。世界は関係によって成り立っている。その関係が変われば世界が変わるだろう。いや、そんな大袈裟なことでもなく、これまで以上に気が散って収拾がつかなくなるのが心配だ。
携帯メールはスピードが命らしい。メールのやり取りには暗黙のルールがあるという。すぐさま返信するのが常識で、時間を置いてはいけない。翌日送りにするなどは、もってのほかなのだろう。そんなわけで、すぐさま返信しないと、拒絶の意思を伝えることになってしまうようだ。そんなことを続けていて、ものごとを考える余裕があるのだろうか。
わたしは携帯電話のスイッチを切っている。メールどころか、通話もできない状態にしているわけだ。番号を広く知らせているわけでもないので、電話がかかることはほとんどない。それでもスイッチを切っているのは、携帯電話で待ち構えるのに耐えられそうもないからだ。特別の事情のあるときには便利だけれども、それが日常になるのはご免だ。
しかし、どうだろうか。こんなことをいっていると、紋切り型の繰言になりかねない。新しい器械が登場すると、いつも年長者は嘆いたものだが、それもいつの間にか忘れられて当たり前のことになる。時代の変化はその繰り返しだ。
ただ、そうはいっても、時代の変化を確認しておく必要はあるだろう。若者たちのあいだでは、気が散って収拾がつかなくなるのが常態となっているのかもしれない。彼らの世界はすでに大きく変わっているのだろうか。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。