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風の声

大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー

第28回

第28回
ケータイという道具
(後編)

久田 邦明
※組織名称、施策、役職名などは原稿作成時のものです
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ある研究会で高校の先生の報告を聞いた。テーマは「インターネット・ケータイと居場所の変容」。ストリートダンサーでもあるその先生は、サブカルチャーの論文も執筆しており、若者とのつきあいの範囲が広い。

「携帯電話は電話ではなく、ケータイという道具」という指摘が、わたしには、たいへん参考になった。

わたしなどは、つい携帯電話を通話のための手段とみてしまうが、高校生にとっては、そうではなく、通話機能はほんの一部分にすぎない。何ごとも「困った時はケータイ頼み」だという。時刻や日にち、曜日の確認。計算、漢字、電車の時刻。友だちの電話番号。明日の天気。メモ。コピー代わりの写真。友だちへの質問。待ち合わせの連絡。音楽やゲーム、サイトを楽しむ。どれも携帯電話を使う。最近では、財布代わりにもなっている。

そのせいで、記憶しなくてもよいし、ものごとの段取りが悪くてもオーケーだ。ケータイという道具を使えば、その場その場で何とかなる。ダンスは集団的な活動だが、そこでも、携帯電話に依存した、その場しのぎのふるまいが目立つという。

見過ごせないのは、彼らの問題解決能力とケータイとの関係だ。「やりたいことが発生」すると、「とりあえずケータイで解決」するが、「できない場合は諦める」せいで、「自分の能力は身につかない」という仕組みになっている。そのせいで、「考えない、覚えない、思い出さない、工夫しない、想像しない、見ない、聞かない、読まない、書かない…」となるという、その先生の指摘は厳しい。

困ったことではあるけれども、この報告を聞いて、「ケータイがなければ生きていけない」という若者のことが、わたしにも少し分かるような気がしてきた。また、携帯電話を敬遠するわたしもエラソーなことはいえないなあ、と思った。彼らと似て、毎日を、その場しのぎでやりすごしているではないか。

久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。

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