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風の声

大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー

第29回

第29回
ケータイと新老人
(前編)

久田 邦明
※組織名称、施策、役職名などは原稿作成時のものです
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わたしは常々、ケータイはよくわからないものと思っていた。そればかりか、若者たちの話を聞くうちに、何かとてもつまらないもののように考えていた。

ところが、そういうときに次のような文章にめぐりあって、そうだ、そういうふうに考えればよかったのだ、と納得できる気がした。

「ケータイは伝えるべきメッセージを発信する道具というより、
 むしろ相手との関係を維持する(=つながる)ための道具である」

携帯電話が、ただの電話ではなく、ケータイという道具だ、ということは、先にここで紹介した経緯で、わたしも理解するようになっていた。ケータイにおける通話機能の役割はほんの少しで、「困った時のケータイ頼み」という具合に、日常生活の全般にわたって利用されているのがケータイなのだということだった。

さて、そのうえで考えなければならないのは、やはり携帯電話の通話機能についてだろう。どうやら、それもまた、従来の電話の利用方法とは根本的に異なるらしい。そのことを、前述のことばが教えてくれたのだ。

この20年を振り返ると、電話は、固定電話、留守電、ファックス、インターネット通信、携帯電話と、めまぐるしく展開してきた。これらの時代を経験してきたわたしは、携帯電話を「伝達のための道具」と考えてしまうクセがある。そのせいで、若者たちが携帯電話をいじる姿に戸惑うわけだが、それがメッセージのやり取りでないとすれば、カチャカチャといじり続けるその姿に納得できないこともない。

前述の引用文は『暴走老人!』(新潮社)という、ぶっそうなタイトルの本からのものだ。著者の藤原智美は50代の男性で、老人に近いところに身を置いている。従来のケータイ関連本は大方、若者向けのものだったので、同じような主旨の文章を読んでいてもおじさんにはわかりにくかったのだろう。だが、藤原のいう「新老人」の側から指摘してもらうと、わたしにも理解しやすい。さらに考えてみよう。

《つづく》

久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。

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