大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第30回第30回
ケータイと新老人
(後編)
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ケータイがつながるための道具だとすれば、いったいどういうわけでつながっていなければならないのか。これがその次の問題だろう。『暴走老人!』(新潮社)はこの問題を考えるためにも参考になる。
この本はタイトルから想像されるような高齢者バッシングの本ではない。「時間」「空間」「感情」という3つのテーマを立てて、わたしたちの社会のコミュニケーションのあり方の変化を検討するものだ。つながるための道具、ケータイの仕組みも説き明かしてくれる。
モノを売るためのサービスが客を巻きこんだ新しいコミュニケーションのかたちとなり、社会一般へひろがっているという。病院で患者を「患者さま」と呼ぶという話には気持ちが悪くなるけれども、教育を多様なニーズに応えるサービスと捉える教育行政の動向をみると、学校でも「児童さま」「生徒さま」と呼ぶようにならないとも限らない(これはまあ冗談だが)。
著者の藤原は、新しいコミュニケーションのかたちが接客場面から拡張して日常化しつつあるという意味で「丁寧化」と名付ける。そしてその上で「『心』がまるで市場で売買されているかのような時代、ずかずかと人間の内面に押し入ってくるこの丁寧化は、人々を疲労困憊させる」と指摘する。
ファーストフードやテーマパークのバカ丁寧な対応が、どういうわけでわたしを過度に苛立たせるのかずっと不思議だったが、そうか、そういうわけだったのか。彼らはバカ丁寧な接客態度を武器にして、わたしの心を突き刺すのだ。行儀の良い丁寧な客としてふるまうように、こちらを強制する仕組みだ。そんなものにつきあってはいられない。不可解な行動で周囲と摩擦を起こす「新老人」が誕生するわけだ。
丁寧化のコミュニケーションの背景には、互いに内面に下りていくことのない「回避し合う関係」が横たわっているという。そんな屈折した関係が日常化してしまえば、不安に駆られて「相手との関係を維持する(=つながる)ための道具」が手放せなくもなるだろう。
ところで、最近またケータイ・ネットを主題とする集まりに参加した。若い研究者の報告や発言を聞いたわたしは、「ケータイ・ネットは、つまらなそう」と、それまでの議論に水を掛けるようなことをいってしまった。少しばかり「暴走」したのかもしれない。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。