大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第31回第31回
期待されていない若者たち
(前編)
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ある日の講義のことだ。若い世代の呼称は時代によって変化してきたという話をした。それぞれの呼称はその時代の期待を表すものでもあった。
前近代社会の「むらのわかいもん」は、祭りや消防・警察などの役割を担い、生活共同体の後継者として期待された。近代社会の「青年」は、近代化の担い手として期待された。ついでにいえば、戦争中は軍事国家の兵士として期待され、敗戦後は平和国家の旗振り役として期待された。その後、1960年代後半から「若者」と呼ばれるようになると、消費社会の牽引役として期待された。
わたしはこんなことも付け加えた。お役所が青年ということばを手放さないのは、その仕組みが近代化の時代に止まっているからだろう。若者ということばも力を失っている、それに代わることばがすでに生まれているかもしれない。
この日の感想文に、こう書いた学生がいた。わたしはこれを読んで考え込んでしまった。
「明治の青年たちが近代化の担い手として期待され、1960年以降の若者たちが消費の担い手として期待されていたということを知り、現在、私たちは何を期待されているのだろうかと疑問に思いました。もしかしたら何も期待されていないのかもしれません。ここ何年かで若者への批判が大きくなっていることは、そのことを表しているように感じました。」
わたしが話したのは、社会的な期待あるいは時代的な期待という意味だった。そういうものが感じられないと、この学生は記している。何ということだろう。
これまでも「いまどきの若者は」という批判はあったが、その背後には次世代への期待があったと思う。そうだからこそ若者の方も同調したり反撥したりすることができた。ところが、最近の若者批判は、若者に期待しない、実も蓋もない批判だというのである。なるほど、そういわれてみれば、思い当たる節がある。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。