大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第32回第32回
期待されていない若者たち
(後編)
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自分たちは期待されていない、と考える若者がいるらしい。翌週の講義で、その感想文を紹介した。すると、今度は「青年」と「若者」を比較する感想文が届けられた。
「『青年』と『若者』という言葉を並べてみると、確かに『青年』の方が好ましく感じられる。」
「青年と若者という言葉ですが、青年という言葉は私にとって何となく好印象なイメージがあります。それに比べ若者というのは『最近の若者は…』という表現のせいか、マイナスイメージがあると気づきました。」
「『若者』はマイナスイメージがある。それは批判の対象とされる場合が多い。『青年』には、プラスのイメージがある。『青年』には良い見本としてのイメージが強いからだ。しかし、自分は、さほど自分を『青年』としても思っていないし、『若者』の方があっていると感じています。」
わたしと学生たちのあいだでは、ことばの印象が大きくちがっているようだ。「若者」ということばがひろがった60年代は、文字通り若者の時代だった。若者ということばに力があった。その一方で、大正期に創刊された『新青年』という雑誌や敗戦直後の青年文化会議という団体の「青年」は歴史的なことばになっていた。
ところが、学生は「『青年』のほうが好ましく感じられる」「『若者』はマイナスイメージがある」という。「青年」が近代の所産であるとは、すでにいわれてきたことではあるが、それに代わった「若者」も、今になってみると、安手のバリエーションにすぎなかったのかもしれない。
やはり問題は、若い世代が自分たちは期待されていないと感じているところにあるのだろう。大人が、そういう彼らに対して社会的存在であることや歴史的存在であることを望んでも無理なのである。
これまでわたしは「子どもや若者は勝手にやってくれ」というスタイルをとってきたが、これからは「こうあって欲しい」という期待を語らなければならないのか。しかし、それが思い浮かばない。わたしはもう一度考え込んでしまった。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。