大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第51回第51回
高校生世代という捉え方
(前編)
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たしか2003年のことだった。あるまちの青年会議所が地元の若者たちのための職場体験プログラムを始めたと聞いた。青年会議所は、わんぱく相撲(国技館で全国大会を開催する)をはじめとするさまざまな青少年育成活動をおこなっている。若手の事業主が集まる青年会議所には地域の後継者を育てる役割がある。そう考えていたわたしは、さっそく問い合わせた。
このプログラムは、若者の希望に答えて半日か一日程度の職場体験先を紹介するというものだ。「100%希望に答える」という方針で、青年会議所のメンバーの職場はもちろんのこと、それ以外の職場についても伝手を頼って対応した。
このプログラムの詳しい内容については省略する。わたしが感心したのは、対象者を「高校生世代」として、高校生としなかったことだった。中心メンバーにこのことばづかいについて確認した。「中卒の人もいるし、高校を中退した人もいる、高校に在籍していても不登校の人もいるから、高校生世代とした」と、その人は答えてくれた。社会人の見識である。
わたしを含む教育関係者は、十代後半の若者のことを、何気なく高校生と呼ぶが、この世代と高校生がイコールではない。教育という枠組みには収めようとすると、その外側に位置する人々がみえなくなってしまうのである。
これは、ことばづかいだけの形式的な問題ではない。青少年施策を考える場合、もっとも支援を必要とするのは中卒者や高校中退者なのである。これまでずっと学校が青少年の面倒をみてきたせいで、彼らは、学校との関係が切れると、行政施策の網の目からこぼれ落ちてしまうのである。
このような状況のなかで、高校生という捉え方の施策では、問題の解決を先送りにするだけのことになる。こう考えると、青年会議所の人々の社会人としての見識に、あらためて感心するのである。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。