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風の声

大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー

第68回

第68回
講義について考えた
(後編)

久田 邦明
※組織名称、施策、役職名などは原稿作成時のものです
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あれこれ考えるうちに『太夫才蔵伝 漫才をつらぬくもの』(鶴見俊輔 平凡社)という、漫才の歴史を主題に日本文化論をまとめた本のことを思い出した。

漫才ではツッコミ(太夫)が賢い人でボケ(才蔵)が愚か者だが、二人のやり取りが始まると、ツッコミの賢さがあやしくなる。また、ボケの愚か者が油断のならない者にみえてくる。このようにして日常生活における常識的な位置関係がひっくり返ると、そこに笑いが生まれる。

代書屋の落語では代書屋がツッコミで、やって来た男がボケだろう。これに倣えば、さしずめ教師のわたしがツッコミで、講義に不熱心な学生がボケだ。ツッコミ役のわたしが代書屋の噺のように、あるいはまた漫才のように、講義をもう一つの話芸の舞台と自覚していたならば、学生とのやり取りも楽しいものになったのかもしれないではないか。

それだけではない。太夫と才蔵の話芸の核心には「あほの相互性の確認への動き」があるという。「かしこい人のかしこさも、あほの地に浮くだんだら模様として見る」という知恵が潜んでいるらしい。ことばづかいの達者な者が利口なわけでもないということだろうか。この本のうんと奥行きのある内容を、わたしのご都合主義で引用してしまって申し訳ない気もするが、それはまあ許してもらうことにして、大衆化した大学の講義をこんな調子でやれないものかと思う。

いや、それにはわたしはまだまだ芸が不足している。芸を磨かなければならないが、それも簡単ではないような気がする。かなり前から、ボケとツッコミが固定的でなく、入れ替わる漫才がひろがっているからだ。また、学問というものが軽くなったせいで、ツッコミがツッコミらしくふるまえないという問題もある。

久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。

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