大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー
第69回第69回
地域社会は再生する
(前編)
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地域社会はもう存在しない。まずこのように断言した方が問題がはっきりするだろう。それというのも、いまだに生活共同体としての地域社会(地域共同体)が存在するかのような見当違いな発言がめずらしくないからだ。
「今どきの親は自分の子どものことしか考えない、それに比べて昔の親は自分の子どもも隣近所の子どもも同じように叱った」といわれる。
昔の親が隣近所の子どもを叱ったのは、地域共同体が存続しなければ家業が潰れてしまうからだ。隣近所の子どもも自分の家の跡取りと同じように、ちゃんとした大人に育ってもらわなければ困る。あたたかい心をもっていたから隣近所の子どものことを気にかけていたわけではない。生活の必要から隣近所の子どもの世話を焼いたのである。
現在の親は会社から給料を受け取っている。メディアで報道される日本経済の動向に関心をもっても隣近所の子どもに目が届かないのは当たり前だろう。昔の親が賢明で、現在の親が愚かなわけではない。
家業と地域の生産活動を基盤とする地域社会は高度経済成長期に消滅した。それにもかかわらず、その時期なお地域社会が存続するかにみえたのは、地域共同体の記憶が多くの住民に共有されていたからである。過去の記憶によって地域社会の暮らしが支えられていたという意味で、そこには、たしかにリアリティがあったといえるだろう。
この点に着目すれば、この時期にひろがった市民運動も地域共同体の記憶があったからこそ可能だった、といえるだろう。市民運動は、理性的人間がモデルの自立した個人を構成単位とする社会の実現を目標に掲げたが、そういう市民が突然誕生するはずもない。地域共同体の記憶が人々を市民運動という場に呼び集めたと考えるべきだろう。
今になってこんなことに気づくのも、地域社会が存在しなくなったという厳然とした事実が目の前にあるからである。
久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。