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風の声

大学で講師を務める評論家久田邦明氏のエッセー

第70回

第70回
地域社会は再生する
(後編)

久田 邦明
※組織名称、施策、役職名などは原稿作成時のものです
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地域社会が存在しないにもかかわらず、さまざまな立場の人々によって地域社会が盛んに話題になるのは、どうしてだろうか。

それは、人々の生活の必要が地域社会ということばを呼び戻すからだろう。子育て中の親が子どもを死なせてしまうとか、一人暮らしの高齢者が死んで何日も気づかれないとかいう厳しい現実をみれば、地域社会が存在しないことにするわけにはいかない。

消費社会のサービスの充実によってこのような問題に対処するという方法も考えられないではない。しかし、それはほとんど机上の空論だろう。人々の生活の全体を、分類されたサービスでカバーすることなど不可能である。やはり地域社会を呼び戻さないわけにはいかないのである。

このような意味で、地域社会は相変わらず存在する。人々の生活の必要というものが、すでに存在しなくなったはずの地域社会を呼び戻し、アイデアとして存続させているのである。

それでは、呼び戻されようとしているのは、どのような地域社会なのか。わたしが貧しい想像力をはたらかせてみると、それは、中間団体の網の目の全体のことである。この場合の中間団体とは、会社や学校と家庭のあいだに位置する、顔の見える親しい人間関係のまとまりのことである。わたしたちの暮らしのなかの伝統文化である、講、結、連などのことばを思い浮かべることもできる。

これに対して、地域社会が存在しないことを前提に、一人ひとりを単位とする出入り自由のネットワークを基本とする社会をイメージする考え方もある。顔の見える親しい人間関係は人を拘束する。それを避けるにはインターネットを介したつながりのモデルなどの方が快適に思える。しかし、このような考え方は、生活の必要という視点からみれば実に空しいアイデアだ。一人ひとりを単位とする自由とは、それこそ孤独と同じ意味ではないか。

久田 邦明(ひさだ・くにあき)
首都圏の複数の大学で講義を担当している。専門は青少年教育・地域文化論。この数年、全国各地を訪ねて地域活動の担い手に話を聞く。急速にすすむ市場化によって地域社会は大きく変貌している。しかし、生活共同体としての地域社会の記憶は、意外にしぶとく生き残っている。それを糸口に、復古主義とは異なる方向で、近未来社会の展望を探り出すことが可能ではないかと考えている。このコラムでは、子どもから高齢者まで幅広い世代とのあいだの〈世間話〉を糸口に、この時代を考察する。

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