進路や学部・学科選びのポイントを、センセイ・センパイにインタビュー。シリーズ3 大学・短期大学17学問系統別、大学の先生に聞く「学部・学科選択のポイント2」
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学校教員・幼稚園教諭・保育士養成
【学べること】小学校教員養成、中高教員養成、特別支援学校教員養成、職業教員養成、幼児教育・保育、教育学・生涯教育など
総合教育科学系 教育学講座(学校教育学分野)
腰越 滋(こしごえ・しげる) 准教授
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進学先を検討する際、将来の目標や学びたいことを明らかにしたうえで、自分の希望にあった勉強・研究ができる進学先を探すことが重要だ。具体的に学部を検討してみると、同じ名称の学部はたくさんあり、大学によって学ぶ内容に特徴があることがわかる。では、どのような点に注目してこれらの学部を検討していけば良いだろうか。ここでは17の学問分野別に、大学の先生にインタビュー。自分にふさわしい学部を選択するコツ・ポイントについてアドバイスをもらった。
教育はバトン渡しの仕事ではないか。自分が失敗や苦悩した経験を踏まえ、柔らかくて暖かい励ましのメッセージを込めたバトンを、後進に渡していく。
高校までは、学説がいくつあろうが、教科書に載ったものだけを覚えておけばよかったけれども、知識を生産するのが大学だという話を、高校へ出向いての出張講義でさせてもらっています。知識を生産することは、大学に入って初めてできることです。いまは教科書を覚えて大学入試をクリアしなければいけないけれども、その後に本当に自由な知への旅が始まるのではないでしょうか。
私の専攻する教育社会学は、一見自明で疑う余地のないことを、敢えて問う学問分野で、批判的な視点で物事を捉え、自明性を疑ってみるというというのが、その特徴です。代表的な研究のトピックとしては、社会階層論や学歴社会論などがあり、当然受験の問題も扱います。したがって大学入学後は、今皆さんが感じている受験制度の矛盾に関する事柄などをも、自由に考えることができます。
本当の学問というのは、教科書に載っていることだけではないと、気付かされるわけですね。まさに、そこに大学の存在理由があると言えましょう。
教師に向いている人とは?
教育学者の佐藤 学先生は、こんな講演をされています。
コインを落とすと、漫画などではチャリンという擬音で落下音が表記される。確かに、カタカナ表記するとチャリンになりますが、佐藤先生は「チャリンを使うなと言われたらどう表現するか」と聞くんです。すると、コインを落とす度に音が違うし、人によって全部答えが違うことに気付く。「それが個性だ」と佐藤先生は仰っています。
我々が、言語システムにとらわれているから同じ答えになるわけですね。でも、それなしで考えてみると、一人ひとり答えが違ってくるわけです。つまり個性は、その人の中に所与のものとして内在しており、それに「気づく」ということが、大切なのです。
小学校の頃に、金子みすゞの詩『私と小鳥と鈴と』を習い、「みんなちがって、みんないい。」と教わります。ですが、中学・高校になると、みんな忘れてしまう。それよりも、周囲の人よりも良い点数をとることばかりを考えるようになる。これは戦後教育の問題状況の1つで、専門的には「生と知性の乖離(かいり)」と呼ぶべき状況だと言えます。
教育を受ければ受けるほど、モノの本質が見えなくなる。即ち生きることと知性が、乖離する状況が現出するわけです。こういう現象が生起した状況の中で、どう生きていくのかを真面目に考えることのできる人が、教師に向いていると思うし、よい教師になれる人だと思うのです。
それからリスペクトしあう姿勢も重要です。これは、児童・生徒が教師を尊敬するだけではなくて、教師の方も児童・生徒をリスペクトすることを意味します。これをくだんの佐藤先生は、「教職への畏れ(おそれ)」と呼んでいます。教師が学級を持ったときに、「この児童・生徒たちと1年間うまくやっていけるだろうか」と、心に抱く畏怖であり、単なる恐怖ではない。恐れではなく畏れ、寧ろ畏敬の念のようなものです。それがない学校は、決して本当の意味での教育がなされる学校たりえない。
かつて学校で知識を得ることは、将来設計につながる明確なミッションを担っていましたが、いま学校教育で得られる知識に、そうしたものは求められていない。知識自体に新規性がなく、子どもも親も、塾や予備校で以て学校を凌駕する知識が得られることを知っています。だから、学校の教師は必然的に苦戦を強いられる。
また、佐藤先生はこうも仰います。
知識は一度知ってしまえば鮮度を失うという意味で風化するので、教師は既知の風化した知識を、オーディエンスたる児童・生徒に教えなければならない。しかし、児童・生徒は毎年入れ替わるので、新しいオーディエンスに対して畏敬の念を持ち、一緒に知識を再発見していくことを、何十回も続けていくことが大切で、そこに教師は、どう喜びを見いだしていくかが肝要なのだと。
しかし、この児童・生徒との出会いを再生していく過程が、特に後期中等教育では担保しにくくなっているのが、現実だといえましょう。
挫折を経験した人こそ教師を目指せ
東京学芸大学には、レーダーチャートでいうと正多角形型に近い、学力や人格においてバランスの取れた学生がたくさん入学してきていると思います。ですが、中にはコンプレックスの塊というか、いびつな鋭角や鈍角を含んだ型の学生もいます。そういう学生は当然悩みを抱えており、よく相談を受けます。自分もそうだったからよく分かるのですが、そういう学生と触れ合うことが楽しみというか、教師になった醍醐味だと思えます。
また教育系の大学に来る人、教師を志す人は、順風満帆に過ごしてきた人よりも、何度も転んでいる人の方が、人の痛みが分かるという点において、教師に向いているのではないでしょうか。
現実にはどこの家庭でも、家制度、介護、教育などの問題を抱えており、児童・生徒はそうした背景を抱えて学校に通ってきています。教師というのは、様々な問題背景を抱える児童・生徒に深く踏み込むには限界がありますが、少なくとも彼らと対峙する関係ではない。寧ろ、児童・生徒と一緒に併走するような関係ではないでしょうか。その関係性は、教育というより共育というイメージです。
さらに、教育学というのは人育ての学問であり、教育はバトン渡しの仕事ではないかと思います。自分が失敗や苦悩した経験を踏まえ、柔らかくて暖かい励ましのメッセージを込めたバトンを、後進に渡していく。先達から受けたそのメッセージを、後進たちは自分なりに、どうモディファイ(修正・加工)していくかが、教育という営為なのではないかと思えます。そして、先達のその思いが後進に実感として伝わり、また次の世代へとバトンが渡されていった結果、教育マインドなるものが涵養されていくのではないでしょうか。
大学入試があるので、偏差値とか難易度も無視はできませんが、それにとらわれて本質的な部分を見落としてはいけないと思います。
いまは情報の時代ですから、大学のサイトを見れば必ず大学の情報があり、教員の情報も載っています。そこから大学で学んでみたいことを探すのがベターではないかと思います。またその先生がどこで勉強していたか、出身校などを見るとそのつながりで、他にも興味を惹かれる先生に出会えたりします。そうしたことが大学探しの手がかりになると思います。
大学に行きたいと思うのなら、そこで自由なことを学べ、それを実現できる先生がどこにいるのか。そういう考え方でアプローチしてもらえれば、自ずと道は見えてくるのではないでしょうか。もちろん、研究や学びの時間が十分に与えられる大学であることは最低限必要です。
東京学芸大学は教育学部の単科大学ですが、1学年は1,000人を超え、教員養成を行う学校教育系、教員養成を主たる目的としない教育支援系の課程があります。つまり教師を養成する課程だけの大学ではないのです。学内的には大きく4つの学部が入っているような構成になっています。内部的には総合大学に遜色しない専門領域もありますし、各分野で名の知られた先生もたくさんいらっしゃいますので、ぜひ調べてみてください。
大学生活が順風満帆であるに越したことはありませんが、挫折や失敗に遭遇したときこそ、自分と向き合い自分を育てるチャンスです。逃避せずに踏ん張ってみてください。失意や苦悩を克服してきた教育マインドを持つ先輩が、必ず励ましてくれるでしょう。